ドルが安かったから、ベースを買った
アメリカに着いて、Davidという友達の家にしばらく住まわせてもらい、その間に家探しを行った。
とはいえ家探しの前に最初に行ったのが、楽器屋だった。
なんというか、その当時は1ドルが80円程度だったのに加えて向こうはそういった楽器が日本に比べると安かったのに舞い上がってしまったのであった。
Underexposedではベースを弾いていたし、Davidがギターを持っていたからギターを弾きたければ借りればいいや、という考えでベースを買った。
ebayという日本でいうヤフーオークションのようなサービスで購入したのだが、さすがアメリカはテキトーでいい加減な奴が多い。
買ったものを開けてみると、なぜか5弦ベースだったのだ。
少ないよりはいいのでラッキーだと思うことにして使っていたが、このベースが意外と役に立つこととなった。
美大で知り合ったChrisというちょっとおかしな奴がバンドをやりたいということでセッションに呼ばれたり、Emilyというスピリチュアル系の女の子に誘われてバンド(Omというバンド。コテコテのスピ系の名前)に入って人前でも何度か演奏した。
かなり拙い演奏だったが、あまり気にしている様子もなかったし音楽を通じて友達の輪が広がっていったのを実感した。
ちなみにEmilyは今Space on spaceというアート雑誌の創業者となり、僕の作品も取り上げてくれた。
(ちなみにこのベースは帰国前にみんなで折半していた光熱費にあてるために、手放してしまった)
ルームメイトと作ったセッションルーム
美大の油絵科でイケイケだったグループがあり(TGBと呼んでた)、毎週のようにどこかでパーティーをしていた。
僕もそのグループにいて毎日楽しくワイワイとやっていたわけなのだが、その中にMaxという友人がいた。
知り合った当時から何だかいいやつで、よく家に呼んでくれたり、ホリデーの度に実家に連れていってくれたものだった。
そんなMaxだが、絵も上手いがとにかくギターがうまい奴でいつも周りに人が集まっていたのを覚えている。
特に決まった曲を演奏しているわけではなく、いっつも葉っぱでブリブリになっては自分にとって気持ちのいいリフを作り出したり、コードを弾いていた。
楽器を持っている人はそのリフに合わせてジャムセッションを行った。
時には目の前にある空き缶や空き瓶を鉛筆で叩いてビート音をつけたり、フードプロセッサーの激しい音を使って音楽をアバンギャルドな方向へと持っていったりもした。
そのMaxと縁あって2年間一緒に住むことになった。音楽のおかげだと思う。
RyanというMaxと同じ高校出身のドラマー(といいつつなんでもできる)のやつも一緒に住むこととなった。
RyanはVictory Shoesという名前で今も音楽を作っては世に出し、ライブを続けている。
この2年間で何が一番楽しかったかというとジャムセッションができるということだった。
住むこととなった建物は古く汚くて、大家も「出る前に直してくれるなら好き勝手にしてくれていい」というスタンスだった。
4階建てで地下室あり。部屋の数は住む人の数より多かったため、余った一室をジャムルームにすることとなった。
日本では考えられないが、アメリカのバンド文化と、広大な土地だからこそ許される贅沢だと言える。
ここで2年間、僕はベースやギターを毎日弾いた。
一人で練習する時間よりも、セッションをする時間の方が多く、とても幸せで一番楽しい時間だった。
教則本も先生も、みんなで弾く曲やテーマもない。
そこにあるのはただ一体感だけだった。
ちなみにこの時テキトーにつけたバンド名がFungus Brothersで、なくなってしまうのも惜しいと思い日本に帰ってきてから友達とのアート活動で名前を使わせてもらっている。
ジャズギタークラスを受講
その他音楽をやる機会があったのかというと、単位取得とかは関係なしに隣にある音大で一般課程向けのジャズギターのクラスがあり、1セメスターレッスンを受けた。
ギターはMaxに借りた。マーティンのいいアコースティックだったので、傷つけないように大事に使わせてもらった。
初めての課題曲はBags Groveだ。
これはジャズというよりはブルースで、12小節あるFメジャーの曲である。
テーマとバッキングをそれぞれ覚えて、クラスでセッションを行う。
数十人いる生徒みんなでコード進行をバッキングし、先頭にいる生徒から順番にソロギターを弾いて回していく。一人2テーマ分くらいだっただろうか。
並行して座学を行う。
どうやってコードができているのか、スケールとは何か。ジャズに使うスケールとは。
進行とは何か。ツーファイブとは、サークルオブフィフスとは。。。
この音楽理論が特に面白いと感じた僕はかなりのめりこんだ。
普段聞いていたジャズにはこんな理論が裏打ちされており、そんなルールの中でプレイヤー達は自由にそれでいて調和の中で、毎回違った音楽を生み出している。
これこそ、究極の芸術なのではないか?そう思った。
最終課題は、There is no greater loveだ。
合計して4~5曲を1セメスターの間に習った。黒人の歴史についても必修科目で学んだことがあるが(ジャズの誕生についてエッセイを書いた)、それが僕の習ったジャズについてのすべてだ。
いまだにギターなら手癖でツーファイブが弾けるようになったものの、学校を卒業し仕事を始めてからというものの、次第に楽器を演奏することからは遠ざかって行ってしまった。
またも記事が長くなってしまったので、次回に続きを書きたいと思う。
僕の絵の師匠の下での生活と、そこに何となく寄り添っていたジャズ、ロシアのクラシック音楽。
それから、帰国してからについて。
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